少し暗い話になるかもわかりませんが、これが私の大きな発想転換点だったという
ことをお話しさせていただきます。
今となっては『建築家・中村伸二の原点』になっています。
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15年前の阪神大震災で、とてもかわいがってもらっていた叔父さんを亡くしました。
それも家が倒れた、つぶれたという即死ではなく、半年以上もたった8月にです。
事務所開業して今まで15年なので独立後3年経った時の大ショックとして
今でも思い出すたびに眼頭があつくなってしまいますが、書かせていただきます。
ようやく今頃になって書きたい気持ち、書かないと納まらない気持ちになってきました。
高校で世界史を教える先生をしていた優しい叔父さんでした。父の弟です。
私の小さい頃から、可愛がってくれていました。
私が言うのもヘンですが中村の家系は頭が良かったようです。
が、私の父は大学にも行きませんでした。
実はこの叔父さんが神戸大学で勉強したいと言ったそうで、長男である父は、
この叔父さんのために高校を出てすぐに、学費を稼ぐためにも働いたと聞きました。
祖父はすでに戦争で早く亡くなっていたので、祖母一人で4人兄弟を育てて
とても苦労をしたとも聞きました。
私が大学で建築学科に入った時も、叔父さんがこんなヘンな事を言ったのを今でも覚えています。
『建築以外のことを勉強しろよ!』
せっかく入学したのに妙なことを言うなぁ〜と思っていたら≪中東和平≫≪地雷で足の無い子
の写真集≫≪社会心理学≫等など、一杯本を送り付けてきたほどでした。
今となっては、この叔父さんの言いたかった事、生き方だった事がすごくよくわかる
年齢になってきました。
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1/17のあの大地震で東灘区の叔父さん一家の古い家が傾き、危険だと赤紙を貼られました。
直後から家の前の公園で自衛隊のテントが張られ子供3人と5人でのテント暮らしでも、
『これもエエ経験や!まだましや!』
と弁当やパンを食べながらの生活をし、家の中にモノを取りに行っていました。
うれしい事に
『伸二に我が家の復興をたのみたい!』
『傾いた家をなんとかしてくれよ』
と電話があっても、なかなか歩いていける状態ではなかった事も体験された方はよく
ご存知のはずです。
ようやく3駅手前まで電車が動いた3月になって私も始めて被災現場へ行けました。
その風景も、暮らしも衝撃的でした。
電柱は倒れ、ブロック塀も倒れ、道路にはゴミと泥の山、歩くに歩けない状況でした。
テントの中から『パンでも食べるか〜』と笑顔で出てきた叔父さんも、かなり疲れ顔
でした。そのテントと家を往復しながら生徒たちも気になると言う事で高校へ又通い出し、
さらに疲れが倍増したけれど
『生徒たちに会える喜びで行ってんねんで』
と言ってくれました。
いろいろと家の方も相談も進めて、当時の有利な融資も考えて図面を描きだすものの
まったくの建材不足、職人不足で一軒の小さな家はなかなか動けない状況でした。
大阪の知り合いの工務店さんに無理を言って、ようやく現場が動き出したのは5月頃になりました。
少しづつですが廃材や壊れたものを片付けながらの現場廻りでは軽トラでさえ、すっと
走れない風景のままでした。
7月、ようやく本格的に工事が動き出した頃に元気だったその叔父さんが過労で
検査入院すると話を聞いてびっくりしました。
8月、もう一ヶ月もしないうちに綺麗になった家に帰れるのをベッドの上でも楽しみにして
いたそうです。私も現場の様子や工事の進み具合を病院に報告に通いました。
『ここは、このクロスの色が明るくて良いよな〜伸二!』
と大きなクロスのサンプル帳をさげて行っては、ビデオ撮影で現場の様子を見てもらっていました。
父も母も病院にひんぱんに通ったり、子供たちの世話もしている暑い7月でした。
叔父さんも『これ貰ったから伸二食べて、家をちゃんと完成してくれよ、たのむで』と
ベッドでよく言ってくれていました。
8月になる直前に、急に容態が悪くなりました。
『なんで〜、検査入院ちがうの?過労やろ??』
と思っていたら、8月の始めに亡くなりました。
あとで父に聞いたら過労から胃癌になっていたそうです。
あまりにも急なことで私もびっくりし、唖然としてしまいました。
『なんでやね〜〜ん』 『なんで〜、なんで〜〜〜』
クロスの色まで決めて、楽しみにしていたのに・・・
その後すぐに家が綺麗に出来上がり、私はこのことでガックリきました。
1ヶ月はボォー然として、仕事も手につきませんでした。
なんでもっと早く動かなかったんやろうか、なんでもっと・・・なんでもっと・・・、、と。
家が綺麗にできて、喜ぶ家族がいない、、、、この現実。
『何してんのやぁ〜〜、俺は』と・・・・。
お葬式の時には、おおぜいの生徒、OB、学校関係者の皆さんががびっくりするぐらい
集まっていただきました。道路まではみ出してまで皆さん、泣いてくれていました。
この時始めて、この叔父さんの素晴らしい生き様をみました。
霊柩車が、わざわざ綺麗になった家の前を通ってもらい、クラクションを2回鳴らしてくれました。
とても寂しい声に聞こえました。
この15年前の出来事以来、私は何をつくり、何が本当の喜びなのか?
を考えて、今の信条やこだわりを持って仕事に取り組みはじめました。
もう他に目がいかない程に、この叔父さんが教えてくれたモノです。
なぜ、中村は"家族の絆と夢”にこだわるのか
少しはおわかりいただけましたでしょうか?
15年経って、ようやく皆さんに本心が、つらい思い出が語れるようになりました。
長くなりましたが読んでいただきまして、ありがとうございました。
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